ナマステ、ネパール(ニャラム〜カトマンドゥ)
ティンリを出発したバスは、3時間後、峠の手前、標高5,000m付近で、突然の停車。
ヒマラヤの山々が見渡せ、景色も良かったこともあり、みんな最初は、休憩かと思った。
しかし、ドライバーの説明によると、どうやらガス欠らしい。
更に、昨夜、何者かに、ガソリンを盗まれたと言う。そして今から、次の街、ニャラム(聶拉木)までガソリンを買いに行ってくるから、それまで待っていて欲しいと言って、ドライバーは、俺達に反撃の糸口を与える間もなく、通りかかった車に乗って、行ってしまった。
動かなくなったバスの中で、俺達の怒りは、爆発。
しかし、どうすることも出来ずに、ただ待つしかなかった。
最初の2時間ほどは、みんなと遊んだり、煙草を吸ったりと、気楽に待っていたが、ドライバーは、いつまで経っても戻ってこなかった。
そして、バスが止まってから、6時間が経過した。
もうみんな、待つのに疲れているし、この環境の中で、いつまでも待てるはずもなく、更に、日本人女性が高山病にかかり、顔色がみるみる青くなってきた。
ビザの期限が今日、切れる欧米人もいて、まず最初に、その欧米人と、途中乗車の中国人が、バスを飛び出し、ヒッチハイクを決行した。
その次は、高山病がひどくなってきた、mariちゃんと、その相方のwatta君が、荷物をまとめる時間もないまま、やってきたランドクルーザーに乗せてもらい、ニャラムへと行った。
車内は、人が減り、寂しくなったが、まだここには、10人以上の人がいた。
僕達は、朝から何も食べておらず、持ってきていたビスケットなどの食料をみんなに配ったりして、空腹をしのいでいた。
昨日、見た風景(ティンリへ向かう途中)
そして、もう7時間が経過した。
もうこれ以上は待てないと、しびれを切らした僕達は、トラックが来たら、ヒッチを決行することに決めた。
標高5,000mを超える、この場所で、これ以上、ドライバーを待ち続け、ここにいると言うことが、生命の危機になってきたからだ。
十数分後、運良くトラックがやって来て、ko君が、すかさず飛び出した。
それに続き、俺も飛び出し、値段交渉を始めた。
ほとんどko君が、交渉してくれて、1人=30元で次の街、ニャラムに行けることになり、全員が乗れることになった。僕達は、荷物をまとめ、トラックの荷台に載せ、僕達もトラックの荷台に乗り込んだ。
トラックは、走り出した。砂埃と排気ガスをまき散らしながら。
俺は、マフラーをマスク代わりに、顔に巻き付けていたが、鼻の穴まで、真っ黒だった。
トラックは、揺れに揺れて、景色を眺めるどころではなかった。
ニャラムの街に入る手前で、僕達は、トラックを降ろされた。
どうやらこの先で、検問があるらしく、これ以上は、乗せられないと言うことだ。
歩いて検問を通過し、僕達は無事、ニャラム(聶拉木)に、たどり着いた。
道路の脇に荷物を一箇所にまとめた僕達は、2班に分かれ、交代で、ご飯を食べに行くことにした。
watta君&mariちゃんとも合流できて、先にご飯を食べに行った、人達が戻ってきて、荷物の見張りをしていた僕達日本人5人は、食堂へ行き、牛肉面を食べたが、腹が減っていることもあり、とても美味しかった。
左:ニャラムの茶屋 右:ダムの街
mariちゃんは、バスが止まった地点から、標高が1,000m以上も低くなったことで、体調も良くなっていた。ニャラムの街は、標高3,750m。ラサより少し高いくらいだ。
街は、小さいがネパール人もいて、ここで「ナマステ。」なんて言葉も初めて使った。
荷物を置いてある場所で待っているが、ものすごく寒い。
バスの運転手は、誰もいないバスを見て、ビックリしていることだろう。
そして、空になったバスが、ニャラムに到着したのが、午後8時。
僕達がバスを乗り捨ててから、4時間後のことだった。
運転手は、誰もいなかったことが気に障ったのか、ダム(樟木)へは、行かないと言ってきた。
しかし、今の僕達は、今更このバスに乗って、ダムまで行こうなんて、誰も思ってはいない。
もう僕達にとっては、このバスが頼みの綱でも、なんでもない。
ここまで来れば、ヒッチして、ランクルでもトラックでも乗れるし、そうやって、ここまで来たのだから。
僕達は、全員が泊まることができる、宿の手配を済ませて、再び荷物を置いてある場所に戻ると、今度は運転手が、ダムへ行くと言いだした。僕らとしても、行ってくれるなら、乗りましょうという感じだったので、バスに乗り込んだが、バスは20分も走ることなく、Uターンし、再びニャラムの街に戻った。
何故、行かないのか!とみんなで問いつめたところ、運転手は、「俺は、これより先の許可書を持っていないから行けない。」と今更ながら、呆れ返る答え。
そして、代わりの運転手を捜してくると言う。分かっていたなら、初めから、そうしとけ。
これを機会に、俺を含む日本人5人は、一団から抜け、今夜は、ニャラムに泊まって、明日、トラックで国境の街、ダムへ行くことにした。
そして翌朝の午前8時。俺、ko君、watta君&mariちゃん、demu君の5人は、手際よく荷物をトラックの荷台に載せ、俺達5人もトラックに乗り込んだ。
人数が少なくなったおかげで、俺達5人にも、まとまりが出てきた。
俺達5人は、荷台の奥に乗っていたため、景色を見ることが、ほとんどなかったが、隙間から見える風景は、湿気を含んだ、緑が生い茂る風景だった。
俺達は、ここでも検問があるらしく、ダムの手前で降ろされた。
トラックから、降りた俺達の目の前には、緑あふれる光景に驚いた。チベットでは、ほとんど見ることがなかった、生い茂る森林。
各自、リュックを背負い、ハイキング気分で、山の斜面にへばり付いているような街を下った。
そして5人は、中国側のイミグレーションまで、歩いた。
ここまで、本来ならば1泊2日の予定だったが、とんだ珍道中となり、3泊4日もかかったが、おかげでタフにもなったし、今だからこそ、めったにない経験をすることが出来たと思う。
イミグレーションが開く、午後2時まで時間があったので、カトマンドゥまで行く、車を手配しておこうと思っていたら、向こうから、俺達のもとにやって来て、あっさり交渉は成立。
ネパール側のコダリから、バスがあるのは知っていたが、みんな一気にカトマンドゥまで行きたいと、意見が一致した。
俺は、当初、ネパール側国境近くのタトパニと言う、温泉地へ行くつもりだったが、もうそんな気には、なれなかったし、明日からネパールでストが始まると言う、ウワサもあったので、みんなと同じように、今日中にカトマンドゥに着きたかった。
ダム(樟木)の街は、国境ということもあり、商店などでは、両替も出来る。
レートは店によって、多少違うものの、そんな大差は、ないような気がする。
俺は、ここで持っていた中国元を全額、ネパールルピー(Rs)に両替した。1元=8.8Rsだった。
中国時間の午後2時になり、僕達5人は、中国を出国。
サヨナラ、チベット。なんか寂しいです。
俺達は、先ほど交渉したジープに乗り、(1人=500Rs)中国とネパールの国境となっている川の橋の手前で降りて、歩いて橋を渡った。橋の上では、中国人公安が、記念撮影なんかしていました。
橋を渡ると、ネパールのコダリと言う街に変る。
国境を越えて、人種、風景が一気に変わった。
なんか熱気があり、ムンムンとしている。東南アジアにも似た、この光景。
事前にビザを取っていなければ、ここでも簡単にビザを取ることができる。
俺は事前に、ラサでビザを取っていたが、あせることはなく、ここで取ればよかった。
僕達5人は、コダリという街を歩くことなく、ジープに乗って、ネパールの首都、カトマンドゥを目指した。
道路状態は、あまり良くなかったが、チベットよりか、ましだった。
しかし、銃を携えた、軍人による検問が、やたらと多く、政情が不安定な国を垣間見た瞬間だった。
ネパールって、こんな国だったのか?大丈夫なのか、旅をして。と、不安になったが、それ以外は、のんびりとした平和な風景が広がっていた。
宿の屋上からの眺め
カトマンドゥのツーリストエリアのタメル地区に到着したが、ここがタメルのどの辺りか、全く解らない。
地図を広げ、僕達5人は、とりあえず中心部の方へ、向かった。
僕達5人は、とりあえず宿を決めて、それが済んだら、みんなで入国祝いをしようと言っていたのだ。
ko君とdemu君は、出来るだけ安い宿に行きたいと言っていたので、後で会うことにして、俺は、watta君&mariちゃんと一緒に、宿を探した。
とりあえずの宿も決まり、僕は早速、シャワーを浴びた。
4日間、砂埃を浴び続けた髪の毛は、かなりゴワゴワしていて、洗いごたえがあった。
そして、僕達5人は、集合して、タメル地区のとある日本料理屋へ。
話題は、もちろん3泊4日のヒマラヤ越えのことだった。
やっと着いたなと、みんなでビールで乾杯!
5日目のナマステ
今日の朝食は、宿の屋上で、トーストとラッシー。そして、昨日買ったバナナ。
朝食を食べ終えた僕は、日記を書いていた。今日は、天気が良く、スワヤンブナートが良く見えます。
ネパールに入国し、首都のカトマンドゥに着いて、今日で5日が経った。
宿も初日に泊まったゲストハウスは、蚊が多く、夜が騒々しかったので、ラサにいたときに教えてもらった、カンティプール(KANTIPUR)と言う、1泊=330Rs(US1$=73Rs)とても快適な宿へと替わった。
部屋は、広くて、清潔で、トイレもシャワーも付いていて、もちろん!お湯も出ます。
門番もいるし、屋上からの眺めも良く、スタッフも親切で、ちょっとリッチな、大人な宿です。
ヒマラヤ越えを共にした、watta君&mariちゃんとも同じ宿なので、夕食なども一緒に行ったりとしている。そんな時は、ちょっとリッチな食事です。タメルにある、エベレスト・ステーキハウスや韓国料理で、プルコギなど、世界各国の旅行者が集まるタメル地区には、色んな国のレストランがあって、食が楽しめる。
宿の近くで
ネパールとチベットでは、標高(カトマンドゥは、標高1,300m)も文化も違い、気候も随分と変わるので、服装やリュックの荷物もここで、大きく変わりそうだ。
チベット用に持ってきていた冬服類は、捨てる物と日本へ送る物と、再びリュックに入れる物とに分けた。
それと、ラサで買った、お土産なども、日本へ送った。
ラサで購入したチュパは、当然、日本行き。
宿が、カンティプールに変わってから、着ている服以外の服を全部洗濯し、屋上に干した。
ズボンやジャンパーなど、何もかも。リュックまでも洗った。
それにしても、汚かった。排水溝が詰まるかと思うほど、何もかもが、砂埃まみれだった。
ネパールのカトマンドゥには、3種類の旅行者が集まるらしい。
日本から、直接、ネパールやって来た者とインドから来た者、それとチベットから来た者。
日本から来た者は、なんとなくあか抜けていると言うか、清潔感がにじみ出ている。
インドから、ネパールにやって来た者は、インドを旅していたのだなと解るような、服装やアクセサリーを身につけているし、男は、何となく小汚い格好の奴等が多い。
そして、チベットからやって来た者は、手首に数珠を巻き付けたり、服装もインド、ネパールでもなく、かと言って、小綺麗でもない。男は特に、数日間、風呂に入っていないような身だしなみである。
まぁ、それは最初のうちに見られる光景であって、時間が経てば、そんな事は、なくなってゆく。
タメル地区にて
僕もタメルに着いた当初は、砂埃まみれの服とリュック姿で、髪の毛、顔も汚く、ヒゲも剃れず、まさしくチベットから来ましたって感じでしたが、ここに来て、数日後、服やカバンなどを買い、左手首に数珠を身につけているものの、かなりサッパリした格好になった。
早速、買った服を着て、タメル地区をブラブラと歩いていると、ヒマラヤ越えでニャラムまで一緒だった、男性と会い、その後の話しを聞いた。
僕らと別れて、バスに乗った人達は、あれからドライバーが見つかったらしく、ニャラムを出発し、その日の夜遅くに、ダムに着き、ダムに1泊したあと、コダリから、ローカルバスに乗って、僕達と同じ日に、カトマンドゥに到着したようだ。
そして、愛のヒマラヤ越えカップルの二人の内、リーダーシップを発揮していた、イギリス人は、カトマンドゥには、2泊しかせずに、ダライ・ラマ14世に謁見するために、インドのスピティへと向かったのだった。
ここタメル地区は、バンコクで言うならば、カオサンのような所だ。
いわゆるツーリスト・エリアで、安宿〜中級クラスの宿が集中している。衣食住はもとより、たくさんの旅行会社、ネットカフェ、古本屋、土産屋など、旅に必要な物が、だいたいは揃うし、食に関しては、日本料理、韓国料理、西洋料理などなど、もう多彩で、飽きることはない。
また、カフェやケーキ屋などのオシャレな店も多い。
インドラ・チョーク付近にて
昨日は、そんなタメル地区をカメラをぶら下げ、路地をあっちこっち歩いていました。
僕は、タメルから南へ歩いた。
この辺りの通り、アサン・チョーク、インドラ・チョークは、この5日間の内に、3回も来ているお気に入りの通りだ。狭い路地に人と店がひしめき合い、そこにリキシャーやバイク、車が通ると、もうゴチャゴチャ。
クラクションやベルが鳴り、人が避ける。
レンガで敷き詰められた道は、今じゃ、土が重なり合い、隙間にレンガが見える程度。
そんな道に轍が出来、人々の足跡が、轍を踏みつぶしてゆく。
交差点のような場所には、ヒンドゥーの小さな、寺院が建てられているし、アパートのような家々には、すっかり古くなっているが、透かし彫りの装飾が施されていて、異国情緒を感じる。
狭い道に人や物が行き交い、なかなか歩きがいのある路地ばかりで、楽しいです。
夕方からは、タメルのお店をブラブラと、ウインドーショッピングのつもりが、CDを買ったり、ステンレス製の食器を買ったり、何やかんやと買ってしまいました。
いやー、かなり物欲をそそられます。
カトマンドゥには、ラサほどではないが、ここでも長期滞在をするつもりなので、無駄遣いをしないように気をつけなければ。
果物屋(バナナ屋?)