ニュース速報 No.98(2010.3.20号)


キープニュースの頑固さとテイラーのこだわり

August 2005/JazzTimes
キープニュースとテイラーは犬猿の仲、それとも永遠のよきライバルだったのでしょうか? とかく、何かにつけウェスの名前が出ると必ず二人の名前が御伽噺のように登場する。 ここにも、彼らを物語った専門雑誌があるので紹介いたします。 彼らお互いが自分は正しいと主張しますが、そんな仲でありながら《Goin' Out of My Head》の ライナー・ノーツはキープニュースが綴っていたという本当は仲が良かったの?----解りません。                         翻訳にあたり小泉清人氏の応援も得ています。 ------------------------------------------------------------------------------------------    "非凡な才能より柔軟な側面"          天才ウェス・モンゴメリの後期レコーディングにおける甘い演奏は、                          しばしばポップな音楽として片付けられる。             そうではないとジョセフ・ウッダードは言う。 ------------------------------------------------------------------------------------------ ウェスは単にジャズ史における最も重要なギタリストというだけではなく、楽器を超えた天賦の音楽 的才能の持ち主のひとりです。 60年代初期のリヴァーサイド・レコーディングにおけるソロでは、深い音楽的才能、暖かいメロディ 圧倒的なオクターヴ奏法などを聴くことができる。 モンゴメリはピックの代わりに親指を使って、リズミカルなドライブ感を損なうことなく、愛用のギ ブソンL5からソフトなアタックを創り出した。 彼はチャーリー・クリスチャン以降の最も影響力のあるギタリストとしてしばしば挙げられる。 ------------------------------------------------------------------------------------------ 65年ウィントン・ケリー・トリオとの《Smokin'at the Half Note/UMG 2103476》が最近再発されたことによって、モンゴメリの偉大さが再び注 目されることになった。
------------------------------------------------------------------------------------------ しかし同時に、それは昔からの論争を再燃させるきっかけになった。 ------------------------------------------------------------------------------------------ オリジナル・レコードは5曲挿入されているが、2曲はハーフ・ノート でのライヴ録音 : 〈No Blues〉と〈If You Could See Me Now〉 あとの3曲はふさわしくないとプロデューサのクリード・テイラーによ って考えられたため、3カ月後にルディ・ヴァン・ゲルダーのスタジオ で録り直された。 (訳注: "あとの3曲"が気に入らないというのがたいへん意味深く、そ れはライヴ録音された3曲なのかスタジオ録音した3曲なのかという疑 問なんです。
つまり、テイラーの構想が当初からA面はライブ、B面はスタジオとしたのか、両面ともライブだっ たのかと言うことなんです。 今までこのA面2曲はライヴ放送されたものをエァ・チェックしたものか、あるいはWABC-FM局から 提供されたものをA面としてとりたてた、それは同じ年に放送されたテープを使った《Willow Weep for Me》の概念から判断していた。 考えてみるに、テイラーがこの2曲を気に入ったとしても、もし自身が係らなかった録音テープを安 易に使うだろうか? ヴァーヴのプロデューサとしての立場からまずそのようなことはあり得なかった のではないだろうか。 やはり、このアルバムは当初からA面又は両面ともライヴで占める構想でプロデュースされたと考え るのが妥当であろう。 とするならば、【ジャズギター・ブックVol.22】の説明で「A面2曲のライヴにテイラーは関与して いない」と書いたものの、訂正しなければならないでしょう。 ギタリストの小泉氏は「〈No Blues〉と〈If You Could See Me Now〉は明らかにアルバム用にレコ ーディングされているのではないでしょうか。ラジオ放送された《Willow Weep for Me》とは音質も 違うし、演奏形態が違います。すなわち、ケリーやチェンバースにソロを回しているし、演奏時間も ラジオ番組にふさわしくないほど長いです。 そして、アルバム用にしては2曲だけというのも中途半端だし、もしかしたら完全主義者のウェスが 『3曲を録り直させてくれ』と主張したのかも知れません。」と言います。 それらを考えるとB面に挿入させる3曲を再びハーフ・ノートでレコーディングすべきチャンスをう かがったがうまく運ばず、結果的に3カ月後同じメンバーが揃ったところでルディ・ヴァン・ゲルダ ーのスタジオで録り直された、と結び付ける。 確かに、小泉氏が説明するようにアルバムの作り方としての中途半端さは否めませんが、あまりにも 突出すぎた2曲のライヴ演奏をボツにして全てスタジオ録音にしてしまうと言うことも含め恐らくテ イラーは3カ月悩んだ末の結果であったと思う。 その3カ月間という空白は、あくまでも全曲ライヴでリリースすることを前提にしていたという証拠 でしょう。 逆説として、早々とあきらめルディ・ヴァン・ゲルダーのスタジオを借りる予約期間であったという ことも聞くが、それより、ウェスとケリーそれとハーフ・ノートの日程調整がつかなかったことが、 録り直しライヴができなかった要因と考える。 結果的にテイラーの決断は正しかったと思うが、せめてもの救いはB面に追従してA面の2曲がボツ にされなかったこと。 もし、中途半端とされ全てスタジオ録音に替えられていたら、この名盤は単なる《ウィントン・ケリ ー・トリオ・ウイズ・ウェス・モンゴメリ》として扱われていたことでしょう。 「それで気になるのは、ボツになった3曲はどうなったのかな、ヴァーヴが廃棄してしまったのでし ょうか。」と小泉氏は言うが、誰もが気になることですし、ボツにした理由もテイラーに訊ねてみた いですね。 それにしても、テイラーの構想から外れたものの後年ウェスの最高傑作----アルバムはケリー名義と なっている----と誰からも絶賛されることは誰も予想しなかったことです。 特に拘るわけでもないが、でもどうしてケリー名義だったのか? 1965年当時ハーフ・ノートでのレギ ュラー出演はケリー・トリオであり、ゲストのような形で出演していたのがウェスだったということ が、ことアルバムのリリースにおいてもケリー側の力関係が働いた? 疑問の残るところです。)
------------------------------------------------------------------------------------------ しかしモンゴメリの死後、69年にリリースされた《Willow Weep for Me》の アルバムは7曲のライヴ録音にクラウス・オーガーマンによるブラスと木管 楽器編成のアレンジがオーヴァー・ダブされたものだった。 (訳注: 先ず《Willow Weep for Me》のライナー・ノーツの一部を見てくだ さい。 「そして〈ミスティ〉では、私たちは本当にまれなモンゴメリを聴きます: ほとんどアンプで増幅せず、彼はシングル・ノートによるコーラスを弾いた あと、最終的にあの有名なオクターヴへと移行します。
最後のブリッジでのわずかなユーモア(ジャズはそのような機知を失うべきではありません)。 そして他のギタリストがまっ青になるような素晴らしいカデンツァ。 ところで、ホーンについて----なにも、彼らはハーフ・ノートに隠れていたのではありません。 洗面所と草刈り機の間に潜んでいたわけでもありません----それはのちに付加されましたが、ウェス のファンはオーヴァー・ダブされたものを喜ぶでしょう。」と称賛の言葉で書かれてある。 一方、“JazzTimes July/August 2005”の記事は《Willow Weep for Me》をリリース時に購入したラ イターの感想です。 「私はあの日の午後のことを憶えている。私は意気込んで《Willow Weep for Me》を買い、急いで寮 の部屋まで持ち帰り、友人たちを集めて聴いた。〈タイトル曲〉のブリッジ部でブラス・セクション が静かに入ってきたとき、私は卒倒しそうになった。 ジャケットの裏面右下に小さく書かれたエンジニアやアート・スタッフらの録音データによると、プ ロデューサのエズモンド・エドワーズがクラウス・オーガーマンを雇ってこのライヴ演奏に甘みを加 えたとき、モンゴメリの死後まだ3カ月も経っていなかった。 我々は、ライナー・ノーツに書かれた正当化の言い訳を見つけ、あっけにとられて声を出して読みあ げた。」と述べている。 あっけにとられて読みあげたと言うのは、"ウェスのファンはオーヴァー・ダブされたものを喜ぶで しょう"という部分です。 そのあと、「オーケストラを付加することによって、3年前にあのかび臭い部屋で4人の男たちが録 音したサウンドを膨らませたに過ぎない。」と否定的でブラスが被さっているとは夢にも思わなかっ たことに落胆した様子がうかがえる。 その記事で、誤認された伝わりかたがある。『《Willow Weep for Me》は4人編成のブラス・セクシ ョンで付加された』というものです。 この"かび臭い部屋"とはハーフ・ノートであり、"4人の男たち"とはウェスとケリー・トリオのこと ですから、間違えなきよう。 実際、オガーマンの編曲に何人のブラス・セクションが付加されたのか不明ですが、"モンゴメリの 死後まだ3カ月も経っていなかった"ということですから68年9月上旬ごろに終えたことになり、69 年1月にリリースされている。 そこまでの間、クリード・テイラーの後任のプロデューサ、エズモンドがマスターに使ったハーフ・ ノートのライヴ・テープをどのようにして入手したのかという疑問も、それは1965年に放送されたも のですからそれこそエァ・チェックしたものか、WABC-FM局から提供を受ければ簡単に入手できたで しょう。 話を面白くするならば先に入手していたのはテイラーではないかとさえ思う。 彼も参考として放送かなんらかで聴いていたでしょう。しかし、それを丸ごとアルバムに使うのは一 流プロデューサのすることではないし、まして使う気持もなかったでしょう。ですがこれがヒントと なり翌66年に《Smokin'at the Half Note》をリリースしたことにつながっていると考えれば、その 話も成り立つのではなかろうか。 更に面白くするならば、《Smokin'at the Half Note》にヒントを得、労せず成功を収めたのが《Wi- llow Weep for Me》だった----鶏が先か卵が先----かも知れません。まぁ、一般的にはA&Mでヒッ トした作品にあやかってのこととされていますが。 ウェス生前ならばこのアルバムのやり方は企画すら出ないでしょうが、亡くなるや否やエズモンドの 【ふてぶてしさ-しらじらしさ】は今となっては責める理由もなく決して間違っていたとは断言でき ません。オーヴァー・ダブされたことよりも、よくぞリリースしてくれたと逆に感謝しなければなり ません。ハーフ・ノートはかび臭くとも宝の部屋です。まだまだ謎がいっぱいです。)
当然、ジャズ評論家がウァーヴの歪曲行為とオガーマンの甘い伴奏を批判した。 ------------------------------------------------------------------------------------------ 一方、《Willow Weep for Me》はその年のジャズ・グラミー賞を獲得した。 ------------------------------------------------------------------------------------------ 最新の《Smokin'at the Half Note/UMG 2103476》のエディションでは、〈Willow Weep for Me〉の 余分なオーケストラが削除されている。その再発盤は、モンゴメリの演奏を【以前と以後】、ジャズ 対ポップス、芸術対商業、といった観点から評価する、ありふれた批判的議論の中では、証拠物件A としての役目を果たしている。 このレコーディングはウェスの最後の純粋ジャズ演奏として見なされている。 これ以降モンゴメリは、テイラーの下で、商業的で稼げる仕事に身を投じ、温かいオクターヴ・サウ ンドをブラスとストリングスで包み込んだ、ソロ(即興)のない、ポップス中心でラジオ放送好みのヴ ァーヴ/A&Mにおける一連のアルバムをリリースすることになる。 ------------------------------------------------------------------------------------------ モンゴメリは1923年インディアナポリスで生まれ、生涯の大部分をこの地で送り、1968年、心臓発作 により、風変りで輝かしく、そしてあまりにも短い45歳の生涯を終えた。 ギタリストとしてジャズ界に広く知れ渡ったとき、すでに30代半ばであった。 ------------------------------------------------------------------------------------------ モンゴメリはたくさんの子供たちを養うため、精力的にインディアナポリスのクラブに出演し、レベ ルの高い魅力的なプレイで地元に伝説を築いた。 1959年、プロデューサのオリン・キープニュースはリヴァーサイドのコンテンポラリー・シリーズで の逸材を探していた。キャノンボール・アダレイが彼に中西部にいる謙虚な天才ギタリストをチェッ クするよう強く勧めた。 ------------------------------------------------------------------------------------------ キープニュースは「キャノンボールの熱意に促されインディアナポリスに 飛び、ホテルにチェックインしてからすぐにウェスのレギュラー出演する ライヴ・ハウスに向かった」と語っている。 「ライヴが終わり、少し休憩した後、私達は次のミサイル・ルームへ移動 し、そこで午前2時から6時ごろまで過ごした。 太陽がインディアナポリスの上に昇ったときウェスは契約書に署名した。」 (この出来事を祝って、リヴァーサイドのデビュー作《The Wes Montgomery Trio》の中の一曲が〈ミサイルブルーズ〉と名付けられた。)
------------------------------------------------------------------------------------------ この後5年間にわたって、キープニュースはモンゴメリに多くのレコーディング機会を与えた。 「忘れてならないのは、当時ジャズ・アーティストは年に最低2枚のアルバムというのが一般的だっ たと言うことだ。」とキープニュースは言う。 「ウェスのようなミュージシャンであれば、スタジオに入ってもらうことは難しいことではない。 我々は少なくとも年2枚のペース、ときにはそれ以上のレコーディングを行った。」 ------------------------------------------------------------------------------------------ 「最初の年、2枚のレコードがリリースされ、ウェスは注目を集めた。 突然、彼はギター部門でのニュースターに選ばれたんだ。」と、このプロデューサは言った。 「これに対する彼の反応は、依然として一生懸命に働かないとお金を稼げない、という事実に関して 不平を言うことであった。 私は『なあウェス、一年前までは無名で無一文だったんだよ。今、君はスターで無一文なんだよ。わ かるだろ、一年前から比べれば凄まじい進歩じゃないか』と、言い聞かせたんだ。」 ------------------------------------------------------------------------------------------ キープニュースは「文字通り、我々はレコードを売るだけではなかった」と言う。 「私たちは最良の方法でプレイヤーを売り込み、パフォーマーとして、またプレイヤーとして最高の ものをアーティストから引き出すための最大限の努力をした。 恐らくもっと積極的に営業していればさらに良かったんだろうけどね。 その一方で、リヴァーサイドが消滅し、彼がヴァーヴやA&Mに移籍したとき、間違いなくその目標 は彼を売れる商品に仕立てることだった。 彼はポップ・アーティストのように扱われた。」 ------------------------------------------------------------------------------------------ 財政問題により、1964年にリヴァーサイドは終わりを告げた。そしてモンゴメリのマネージャ、ジョ ン・レヴィはテイラーにアプローチした。 テイラーはインパルスを設立した後にヴァーヴに移籍したのだった。 テイラーはハードコア・ジャズ志向のプロデューサと異なり、実業の世界を良く理解していたし、意 欲的だった。 ------------------------------------------------------------------------------------------ テイラーはモンゴメリのプレイを絶賛していたが、これまでのウェスの披露の仕方までも賞賛したわ けではなかった: 「私はリヴァーサイド録音を聴いて彼のサウンドの素晴らしさに気がついていたが、彼がプレイして いた制作環境にはなんの特徴も見えなかった」と彼は断言している。 「ジャズ評論家はこう主張する。こういうアーティストには、『スタジオで好きなようにさせるのが 一番いいんだ』と、けれど誰もそれに耳を傾けなかった。いや、正確に言えば【誰も】ではなかった 。」 ------------------------------------------------------------------------------------------ 多くの人たちに聴いてもらうために何をなすべきかを、テイラーは知っていた: 「ヴァーヴに移籍する以前から、そう、インパルスを始めた時からでした。 私はモンゴメリをラジ オ放送で流すべきだと感じていました。」 ------------------------------------------------------------------------------------------ ウェスのキャリアは、キープニュース時代とテイラー時代に分けて評価されてきた。 しかし、ギタリストの後期アルバムが決まって退けられるのは、今日改めて聴いて再考した結果に基 づいてというより、むしろ歴史的見解や噂話に基づいている。 ------------------------------------------------------------------------------------------ モンゴメリのヴァーヴ最初の2枚のアルバム、すなわち1964年の 《Movin' Wes》と1965年の《Bumpin'》によって、その後のモンゴメリの 一連のポップス風味のアルバムの下地が作られた。 オリヴァー・ネルソンの編曲で1965年のグラミー賞を獲得した 《Goin' Out of My Head》もその中のひとつである。
------------------------------------------------------------------------------------------ 《Smokin'at the Half Note》も1965年に録音された。 このアルバムは、飾りのないジャズ----それはリヴァーサイド時代にのみ 演奏したと一般に思われている----を最後に演奏したウェスの最後のあえ ぎである、としばしば言われるのだが、そうではない。 実際、ホーンとストリングスの編曲の中にギタリストを配置するという、 批判されることの多いフォーマットは、1963年のリヴァーサイド・アルバ ム《Fusion》が最初である。このアルバムは、ジミー・ジョーンズによる 編曲であった。 ヴァーヴのアルバムは単にそのアイディアを追ったものであった。 ------------------------------------------------------------------------------------------ キープニュースは今でも、ウェスのリヴァーサイド以降のレコーディングを好まないファンのひとり である。 このプロデューサは、リヴァーサイドの作品こそがアーティストとしての【本当の姿】を表現したも のであると主張している。 「君達は聴いたかね」と、キープニュースは言う。 「彼のプレイが人々の心に感動を与えることができたわけは、これこそが「本当の姿」だったから だ。私は、それについていかなる疑問もないと思うよ。」 ------------------------------------------------------------------------------------------ キープニュースは言います、「中間的なやり方ができなかったのは、返す返すも残念だ。 私がウェスと継続して関わるか、あるいはその後のウェスの録音に携わった人たちが中間的な方法を 取るか、いずれかのチャンスがあったらよかったのにと思う。 我々がやってきたことの増強ヴァージョンをウェスがやっていればよかっただろうと思う。 もちろん、我々がやってきたことからかけ離れていないものをね。 それにしてもリヴァーサイド後のモンゴメリの作品の中での最高作品が《Half Note》でのライヴ録 音だというのは皮肉だね。」 ------------------------------------------------------------------------------------------ 実際に、《Smokin'at the Half Note》の種はキープニュースによって蒔か れたものだ。 彼が、マイルス・デイヴィスのリズムセクションだったウィントン・ケリー ・トリオとモンゴメリを引き合わせたのだ。  (訳注: ケリーとは61年の 《Bags Meets Wes!/Milt Jackson And Wes Montgomery》で共演している) この4人にテナーのジョニー・グリフィンを加えたクインテットで、1962年 カリフォルニア州バークレーの"壺"でライヴ・アルバム《Full House》が録 音された。
------------------------------------------------------------------------------------------ テイラーはモンゴメリとキープニュースが作った一連のアルバムに対して異なる意見を持っている。 「リヴァーサイドのアルバムの長いブローイング・セッション----私は、こうしたレコーディング を批判している訳ではないが----これらのレコーディングはウェスを新しい世界に連れて行くもので はない。」と彼が言う。 (小泉コメント:blowingとは、ジャズのアドリブを主体としたジャムセッション的な演奏をブロー イングと言います。そういえば、たまたまジョニー・グリフィンのブルー・ノートのアルバムに《Bl- owing session/Blue Note BLP 1559》というタイトルのものがあります。 これは管楽器4本にウィントン・ケリーのトリオでアドリブ合戦を繰り広げるものです。) 「私はセコヴィアの場合だったらそうしようと思わないだろう。 しかし、ここにオリジナル・サウンドを持ちメロディックな即興を演る素晴らしいアーティストがい る。そして、やらなければならないことは、人々とコミュニケートできる身近な状況の中に彼を置く ことなんだ。 つまり、リスナーが好むにちがいないとラジオ局が考えるから、その演奏を流すということなんだ。 『ジャズを流しているのではありません。』とラジオ局側は言うかもしれないが。 こうして、次にウェスがレコードを発売したとき、ウェスの放送を聴いていたリスナーは『おー、ウ ェス・モンゴメリのレコードだ。 ジャズじゃないから、これを聴いてみよう。』と、思うわけだ。」 ------------------------------------------------------------------------------------------ テイラーによれば、モンゴメリはテイラーの推し進める方針に対し決して異論を唱えなかったそうで ある。 「そう、全くなにも。ウェスは決して不満を言わなかったことで、結果的に大成功していました。」 とテイラーが言います。 「彼のマネージャー、ジョン・レヴィも一緒に喜んでいたよ、ウェスの出演料が急騰したといってね 。ウェスが死ぬ頃になって、ジョンの商売は絶好調になった。」 ------------------------------------------------------------------------------------------ モンゴメリは晩年に音楽的な転換を行った、とテイラーは自信を持って語るが、キープニュースは異 議を唱える。 「これは話にならない」と、彼が言います。 「ウェスにとって、ゴテゴテと飾りたてたセッティングの中での演奏はハッピーではなかった。 ウェスが自分からこういうセッティングで演奏をしなかったという事実を見ればわかるように、ウェ スが演りたかったことではない。死ぬ直前まで、彼はトリオやカルテットを組んでいつもロードに出 ていた。ウェスはいつも自分自身の考えで、そうしていたのだ。」 ------------------------------------------------------------------------------------------ テイラーの作品の多くでアレンジを担当した編曲者ドン・セベスキーはまた別の話を述べる。 「クリードは、これらのレコード制作に対してビジョンと方向性を持っていた。 間違いなく、クリードは彼らが偉大なミュージシャンであることを知っていたが、同時に、こうした ミュージシャンたちはファン層を広げることに目を向け始めたのだ。 ウェスのプレイはオーヴァー・ダブされ----そして多くのファンを得た。 これらのレコードがリリースされると、ファンが一角の周りに3重にも列を作りレコードを買い求め た。」とセベスキーは言う。 「ウェスはこうしてファンを増やすことができることを喜んだ。 彼はオーヴァー・ダブで、いつものように思い切り演奏をしたものだ。 演奏し始めると、手加減などせず、リヴァーサイド時代のように全力だった。」 ----------------------------------------------------------------------------------------- 「彼らは以前より多くのギャラが得られて、ハッピーだった。」とセベスキーは言う。 「一部の人々は彼らを『裏切った』として非難したけど、このことで不幸になった人は誰もいなか った。 私たちが関わったミュージシャンたちはみんな、アレンジに満足していた。彼らにとっても良い結 果となったんだ。」 ----------------------------------------------------------------------------------------- テイラー時代に生涯最大のお金を得た後の1968年にモンゴメリがAP通信に話したように、彼のレ コーディング・キャリアはジャズに的を絞った演奏から始まって、全く異なるものへと進化したの である。 「私は最初に、自分がやりたいことを見つけ、ジャズ・ミュージシャンたちはわかってくれた。」 と、彼は言った。 「でも、他の連中はポカーンと口を開けて見ているだけだった。 しかし私は、これだ!と感じていた; 連中は聴くべきだと思った。 私は長い間、自分自身のために演奏をしていた。 それはいい音楽だったし、録音もした。でもそうした音楽はミュージシャンに届くだけで、それ以 上のものではなかった。 それから私は、もっとメロディックな演奏を行うようになり、レコードも以前より売れた。なぜな ら音楽がよりメロディックでシンプルだったからだ。 一般の人たちが何を望んでいるかは売れ行きによってわかる、ということを私は理解し始めた。」 ---------------------------------------------------------------------------------------- けれどもジャズ・マスコミは一般の人たちと異なり、決ってセベスキーのような編曲者の作業を批 判した。 でも、セベスキーは自分の作品がどのように取り沙汰されていても冷静だった。 「まあ、私はプロの殺し屋(請負人)ですから」、と彼は言う。 「私は決められた基準の中での編曲・指揮の依頼を請けました。それが私の仕事だったのです。 クリードの意志とビジョンを受け入れ、それを膨らませ、明確にすることでした。 彼はプロデューサでした。 もちろん私からも提言はしましたが、アイディアは突然涌き出し、彼がさまざまなことを行うには ちゃんとした理由がありました。 「たいていは、マーケティング的な物の見方によるものでした。」と、セベスキーは説明する。 「私が任されていたとしたら、いろんなことを別のやり方でやっただろうと思います。 当時はテイラーが自分に合ったやり方を見つけた時だったんです。」 ----------------------------------------------------------------------------------------- 明らかに、モンゴメリのテイラー時代の録音物は、リヴァーサイド時代のひたむきなインプロヴィ ゼーション精神を欠いているが、このギタリストが残した晩年のレコーディングの多くは、いろん な点で洗練されている。特にその優雅な編曲は、ビッグ・バンド的な美しさというより、豪勢な60 年代ポップスの感覚を示しているし、短いソロは、雄大さには欠けるものの、無駄のないものであ る。 ------------------------------------------------------------------------------------------ そのうえ、スムース・ジャズとしても、現在ポップ・ジャズとして通用しているものと比べて、モン ゴメリの後期録音のほうがずっとインスピレーションに溢れ、冒険心さえ感じられる。 ギタリスト、チャーリー・ハンタはこう語る。「これらの作品はすごいよ。特に現在の音楽シーンで 起きていることを考えるとね。 当時は【裏切り】のようだったが、今日ではアバンギャルドのようだ。 ギタリストがウェスを尊敬する理由は、音楽的にどんなセッティングであろうとも、彼は常に素晴ら しかったということだ。」 ------------------------------------------------------------------------------------------ セベスキーは、こんなふうに言っている。「テイラーのプロジェクトは、当時はスムーズ・ジャズの ようなものと見なされていました。 なぜなら、ジャズ・ファンでなかった人たちを惹きつけ、その人たちをジャズ・ファンに引き込んだ からです。」スムーズ・ジャズは、こうした人たちに気安さを感じさせたのです。 我々には当時、決まった手段というものが本当にありませんでした。NYのチルアウト・ステーショ ン【The CD 101.9】は、いわばそうした手段です。 (訳注:The CD 101.9とは、NYにある軽めのジャズやフュージョン専門のFMステーションのこと。 しかし、2008年3月リスナーの減少で閉鎖された。 チルアウトとは、アシッド・ハウスがムーブメントの頃、麻薬常習者を一般正常者に戻させるため (クール・ダウン)の音楽として生まれたものがチルアウトです。 また、大型のレイヴにはメイン・ステージとは別にチルアウト・スペースというものが設けられて いて、そこで熱くなった体をスムーズ・ジャズ系の音楽と空間でクール・ダウンさせるるようになっ ている場所のこと。) そのFM局で音楽を掛けてもらうには、規約に従う必要があるのですが、クリードがそういうことを 考えていたとは思えません。 彼が望んでいたのは単に人々が聴きたくなるようなレコードを作ることだったと思います。 ------------------------------------------------------------------------------------------ 「多くの純粋ジャズ・ファンはそれを受け入れませんでした。」、とセベスキーは言う。 「というのは、それまでにウェスがやってきたことがハードでスリリングだったと感じていたからで す。しかし、ウェスは私たちがやっていたことをとても喜んでやっていたのです。 そのことを判断基準にしなければなりません。 そのことが、物事がうまく運ぶことを示す良いバロメーターなのです。本当に、誰もけんか腰でスタ ジオに入るなんてことはありませんでした。まさに黄金時代だったのです。」 ------------------------------------------------------------------------------------------ クリード・テイラーは1964年11月----最後のリヴァーサイド・セッションの 1年後----ウェスをスタジオに呼びよせた。 ポップ・ジャズ・アルバムとして《Movin' Wes》をレコーディングするた めだった。 ポップス曲として〈Matchmaker, Matchmaker〉や〈People〉が演奏されてい るが、後者ではモンゴメリによる束の間の美しいバラッド演奏を聴くことが できる。 シングル・ノートでつま弾く部分は、その後、パット・メセニーお得意のス タイルにおけるテクニックとして聴くことができる。 ジャズの曲としては、〈キャラバン〉やモンゴメリが作曲したタイトル曲などの魅力的な曲が収めら れていた。 このアルバムでは、このギタリストの古典的名曲〈West Coast Blues〉の新しいバージョン---ジョ ニー・ペイトの編曲と新しいホーンをちりばめたもの----が目玉であった。このヴァージョンは、く ち当たりが良く、よくまとまっていて(3分少々に収まっている)、短いながらも魅力的なオクター ヴとブロック・コードのソロが聴ける。 ----------------------------------------------------------------------------------------- 《Movin' Wes》はリリース後まもなく10万枚を販売し、ギタリストのアルバムとしてはこれまでで 最大のセールスを記録した。 こうして、その後も引き続き、同じ方針で取り組むことになった。 次にリリースされた《Bumpin'》には、モンゴメリのオリジナル曲がフィーチュアされている。 すなわち、ブルージィで気だるい雰囲気のタイトル曲、スイング感溢れる〈Tear it Down〉、ソウル バンプの〈Just Walkin'〉などである。 (訳注: 〈Just Walkin'〉はオリジナルの《Bumpin'》ではお蔵とされたが、ウェス死後の未発表ア ルバム《Just Walkin'》で陽の目をみた。) また愛らしくリリカルな曲、〈Mi Cosa〉は、《Guitar on the Go》のリイッシューCDでボーナス・ トラック(タイトル不明のソロ・ギター)として聴くことができる。このときは、即興曲のアウトテ イクという扱いであった。 《Bumpin'》では、この曲に絹のようなストリングスがかぶせられている。 ----------------------------------------------------------------------------------------- この時、モンゴメリはギターに電子オクターヴ・ディバイダ・エフェクトを一部に使っている。 いともたやすくオクターヴ奏法を演奏できるギタリストにとっては、このような装置は不要なもの である。 (訳注: この記事のジョセフがあたかも〈Bumpin'〉で電子エフェクトを使っていると説明している事 で大変惑わされたが、彼が言うのは前項の訳注にも連動している〈Just Walkin'〉のアドリブ部分で ダブル・オクターヴのサウンドを聴いて電子エフェクトを使ったと勘違いしていることである。) ポップ・ジャズ・アルバムとしての概念から大きく外れすぎないように気を遣いつつ、《Bumpin'》 ではモンゴメリとピアニストのロジャー・ケラウェイとの間で展開される純粋ジャズ的インタープレ イもフィーチャーしている。 ------------------------------------------------------------------------------------------ 《Bumpin'》の録音では、前もって考えられたアレンジに合わせなければならない、というモンゴメリ の不安を和らげるために、セベスキーがレコーデイング方法を工夫した。 テイラーは、このギタリストと一緒に仕事をすることは楽しい、と言った上で、「今までに唯一遭遇 した不安な場面というのは、多くのストリングス・プレイアーと同時に演ったとき、ウェスがパート 譜を見ていたふりをしていたが読むことができなかったときだ。」 (訳注: 諸説誤解の招く部分ですが、もとより独学のウェスに譜面など読めるはずがなく誇張された 言い方になっている。 実際パート譜を渡されていたかどうか不明ですが、おそらく入らなければならない----メロディなり アドリブの・・タイミングを外したと思う、それはストリングスのキーキー音に悩まされたことが大 きな原因となっていた。) その時以来、我々は、まずウェスがリズム・セクションなどの小グループとレコーデイングし、必要 に応じてあとから他の楽器を補うことにした。」 ----------------------------------------------------------------------------------------- 「その後は、誰もがこの方法でおこなうようになりました。」とセベスキーは言う。 「我々はまずアーティストをリズム・セクションと一緒にレコーディングし、後からバックグラウン ドを被せるようになったのです。 ときには私は、通常のやり方でアレンジを書き、あとでどうしたいのかをリズム・ユニットに対して 伝えると、彼らはそれを邪魔しないように演奏しました。 しかし多くの場合、彼らの演奏するベーシック・トラックを聴いたあとで、創造的アレンジに取りか かりました。 彼らと私の間ではいつも意見交換がありました。単に私が彼らに指示するというようなやり方ではあ りませんでした。 ハービー・ハンコックに短いフレーズを流してもらい、私は頭の中でバックグラウンド・パートを描 いた。 例えば、ハービー・ハンコックが短いリック(即興フレーズ)を演奏すると、私はそれをキーを変えて バックグラウンド・パートに使いました。時々、どちらが最初だったのかわからなくなりました。 」 ----------------------------------------------------------------------------------------- テイラーと編曲者達は、楽譜を使わないこのギタリストにアイディアを理解させるシステムを築きま した。 「編曲者がオリヴァー・ネルソンであれドン・セベスキーであれ誰であれ、フェンダー・ローズで 編曲の大筋を弾いたテープを作ることにしました。 そのテープには肉声での指示も加えられました。 『ウェス、君はここでダ・ダ・タとプレイする----あとからバックにブラスが加えられる。』ウェス がロード中の場合、私は出先にテープを送りつけたものです。 もちろん、彼はいつもホテルの部屋でリハーサルしてくれました。 彼は部屋の中でヘッドホンでそのテープを聞き、ニューヨークに戻って来たときには準備万端という ことでした。」 ----------------------------------------------------------------------------------------- モンゴメリの洗練されたプレイは天性のものだが、正式な音楽理論を学ばなかったということを考え ると、いっそう驚くべきことである。 テイラーは、「彼はチェット・ベイカーに似ている」と言う。チェットは有名なジャズ・プレイアー で、トレーニング不足にもかかわらず、独特のサウンドとテクニックを持っている。 「彼はGm7であろうが何であろうが気にしていません。彼は曲の進行に合わせてプレイできる耳を持 っていました。」 (訳注: ベイカーもウェス同様、音楽理論を学ばなかった独学ペッターです) 1965年3枚目のスタジオ・アルバムで、モンゴメリの名前は更に広まることとなった。それは思い も寄らない曲 を通じてであった。 リトル・アンソニーとインペリアスのヒット・シングルであるタイトルトラック〈Goin' Out of My Head〉である。 テイラーには、モンゴメリにこの曲をカヴァーさせるというアイデアが浮かんだ。彼は「私はソン グライターのテディ・ランダッツォを知っているが、本当に彼の音楽的才能と作詞作曲能力に尊敬 している。」 と言っている。 R&Bのパフォーマンス部分を無視して、その曲だけを注目してみれば、絶対に素晴らしいアドリ ブの素材曲になる。 当時として〈Goin' Out of My Head〉のコードチェンジは洗練されたものだったし、全体の構成も 素晴らしかった。 私は考えた。『この曲はウェス・モンゴメリに打って付けではあるものの、ここにウェスがいると いう現実および彼の経歴の問題をどうやれば乗り越えられるのだろうか? ウェスがリトル・アンソ ニーとインペリアスの音楽を聴くとはとても思えないし。』 ----------------------------------------------------------------------------------------- 「ウェスにそのレコードを渡したときのことは今でも覚えているよ。」と、テイラーは言う。 「ウェスはウエスト・ヴィレッジにあるハーフ・ノートで、ウィントン・ケリーのグループと出演し ていた。 私は『これを聴いてみてくれ。オリヴァー・ネルソンがこのアレンジをを手がけるつもりだ。 オリヴァーならどんなジャンルの曲であっても、君が満足する編曲に仕上げてくれはずだ。』と、 レコードを渡した。すると彼は、『OK、君が言うことなら何でも』と、決心してくれた。 ------------------------------------------------------------------------------------------ セッションでは、一発録りで演奏された曲とオーヴァー・ダブを行った曲があった。 私はウェスのところに歩み寄った・・そのときの写真を持っている: 私は彼の耳元で『ウェス、オクターヴでメロディを演ることに同意したことを忘れるなよ。』と囁い た。もちろん、ジャズ評論家にとってそれは由々しきことだろう。 私は、ウェスという芸術的なダイアモンドの原石を買収し、オクターヴ奏法というタペストリ(複雑 で豊かなつづれ織り)的な技法で演奏させた。」 《Goin' Out of My Head》はグラミー賞を獲得した。その後、すぐにラジオ放送で好意的に採り上 げられるようになり、売れ行きもよく、今までにおよそ百万枚のセールスを獲得している。 商業的なパワーとグラミー賞獲得というわかりやすい肩書きを持っていたものの、このアルバムは、 ネルソンによる粋なアレンジとモンゴメリの壮大でロマンチックなギターが散りばめられた、第一 級のビッグバンド・アルバムである。 多くの商業的な話題と批評家の話題の的になった〈タイトル・トラック〉は2分12秒の長さであるが このアルバムはジャズ的要素に溢れている。 モンゴメリのオリジナル曲〈Boss City〉、クールで縦横無尽のソロを繰り広げる〈Twisted Blues〉 上品で口当たりが良く、それでいて自信に溢れ、エンディングには大胆な不協和音を使った〈Napt- own Blues〉が含まれている。 ------------------------------------------------------------------------------------------ その次に、このギタリストの軽いラテン・アルバム《テキーラ》を吹き込ん だ。 このアルバムはウェスのアルバムの中で唯一のキーボード奏者のいないアル バムである。 ストリングスの編曲はクラウス・オガーマンによるもので、ベースにロン・ カーター、ドラムスにグラディ・テイト、そしてコンガにレイ・バレットが 起用されている。 このアルバムは軽快でメロディアスな作品である。この中で傑出したトラッ クは、静かで陰影を感じさせるオリジナル曲〈Bumpin' on Sunset〉である。 この曲で彼は2オクターヴ離れた同じ音を弾くダブルオクターヴ奏法を披露 している。 ------------------------------------------------------------------------------------------ 商業的成功を収めた勢いに乗って、モンゴメリは1966年 9月にオルガニストのジミー・スミスとブローイン・ア ルバムをレコーディングした。: 《The Dynamic Duo》と《Further Adventures of Jimmy and Wesy》である。 これらのセッションはウェスのジャズ本能を満足させる ひとつの手段であり、そのおかげで、ウェスは新たに獲 得した聴衆に向けて彼らの熱望するヒット曲を演奏する ようなギグに、ある程度没頭することができた。 ------------------------------------------------------------------------------------------ モンゴメリの商業的展望が日ごと良くなる一方で、彼の演奏はギタリスト以外の器楽奏者からも最高 の称賛を得た。 特に商業的な演奏に甘んじることなく高いレベルの演奏を目指すことに努めているジャズ・ミュージ シャンからの称賛が多かった。 1967年のダウン・ビート誌で、レオナード・フェザーがモンゴメリに対しておこなった【ブラインド フォールド(目隠し)テスト】では、登場する様々なギタリスト、ジョージ・ベンソン、ハワード・ロ バーツ、ジョー・パス、ガボール・ザボ、およびグラント・グリーンらに対して心からの敬意を表し ている。 ------------------------------------------------------------------------------------------ 最後にフェザーが、「君が5ツ星を与えたいアルバムはありますか?」と、ウェスに尋ねた。 モンゴメリは答えた----「変かもしれないけど、特に5ツ星を付けられるレコードは思い付かないな あ。 そうそう、マイルスの新作《Miles Smiles》があったよ、この作品は本当に素晴らしい。 常にやり方を変えているんだけど、だからといって必死にやっているわけではない。 またウェイン・ショーターがちょっと違うやり方でプレイしてるんだ。あれはいいアルバムだよ。 ジョー・ヘンダーソンにも5ツ星に値するアルバムがあったね----たしか《Mode for Joe》だ。 マッコイ・タイナー、エルヴィン・ジョーンズ、リチャード・デイヴィスと一緒にやっているアルバ ムだ。」(小泉コメント:これはウェスの勘違いで《Mode for Joe》はぜんぜん別のメンバーです) ------------------------------------------------------------------------------------------ モンゴメリの選んだアルバムは、その当時の挑戦的なサウンドに彼の耳が向いていたということを示 している----そのことは、彼が前衛派に方向転換するということではなく、彼が当時置かれていた商 業的指向の妥協的な立場とは全く離れたものに関心があったということである。 ある時期、モンゴメリは西海岸でジョン・コルトレーンのグループに参加していくつかの仕事を行っ た----そしてトレーンのレギュラー・メンバとして勧誘されている。 「トレーンはウェスから大きなインパクトを受けたひとりだった。」と、キープニュースは言う。 しかしモンゴメリはコルトレーンの誘いを辞退した。 この崇拝するサックス奏者と一緒に演奏することへの不安がその理由のひとつだった。 (モンゴメリは完全版《Smokin'at Half Note/Verve 0075021034761》でコルトレーンの〈Impressio- ns〉を美しく演奏している。) ------------------------------------------------------------------------------------------ ちょうどその【ブラインドフォールド・テスト】が67年6月に掲載されたころ、モンゴメリはセベス キーの編曲したポップス色の濃い3枚のアルバムをリリースしている: 1966年の《California Dreaming》、67年の《A Day in the Life》(この年 のベストセラージャズLP)と《Down Here on the Ground》である。 しかしながら《Down Here on the Ground》は、ロマンチック色の濃いテイ ラー時代のレコーディングの中で(最も人気がないかもしれないが)最もす ばらしいアルバムのひとつである。
------------------------------------------------------------------------------------------ 〈Down Here on the Ground〉でのアルバム・タイトルは、映画シンシナテ ィ・キッドで使われたラロ・シフリンの曲のタイトルである。そしてこのL Pの最後の曲は華麗なオーケストラを配したシフリンのロマンチックな映画 主題曲〈フォックス〉。 この曲におけるモンゴメリのオクターヴが神の恵みに聴こえる。 このアルバムでは〈Georgia on My Mind〉〈I Say a Litde Prayer for You〉 でウェスの天性のメロティックなセンスが十分に発揮され、ゾッとするほど 感動的な〈When I Look in Your Eyes〉では短いコードソロによるインター ルードを聴くことができる。 モンゴメリ作曲の〈Up and At It〉は粋なヴァンプ曲である。 〈Goin' on to Detroit〉では滑らかな流れの中でシンプルで印象的なメロディとウェスのいつもの仕 掛けが一体化し、スタンダード曲になり得る出来栄えである。 このアルバムでは《Miles Smiles》に関わった2人のメンバーを起用している: ピアニストのハービー・ハンコックとベーシストのロン・カーターです。 ------------------------------------------------------------------------------------------ 1968年AP通信のインタビューで、当時頂点にいたモンゴメリは自身の成功について語った。 「《Goin' Out of My Head》が大ヒットしたとき、コワイと感じた」と、彼は言っている。 「当然チャンスが来ることを望んだけど、次のアルバムも同じようなものになる可能性があると思う と、ちょっと気がかりだった----それまでの僕の方向性はハードなジャズだったのだから。 しかし、自分のやっていることを理解しなければならない事に気づき始めたが、でも僕がうまくコミ ュニケートできるところに達しなければ何の意味もないんだ。」 ------------------------------------------------------------------------------------------ 「みんな生きていかなければならないから、ミュージシャンが経済的な理由 でジャズから離れていった。」と、モンゴメリは言う。 「いずれにしろ何のために音楽を演ってるんだろう?世間の人々に楽しんで もらうこと。 これが今の僕の目的なんだ。しかし、僕は選曲するときには商売的な気持ち を持っていない。 《A Day in the Life》はまったく僕には思い付かなかった。 だから第三者に商業的な曲を選曲させ、僕はその曲を自分なりに編曲して、 自分のものにするんだ。」 ------------------------------------------------------------------------------------------ 「僕はレコーディングでいつもパニックに陥るんだ」と、彼は言う。 「スタジオに入ると----曲が準備できていて、全員が準備できている。 照明が点けられ、僕は弾き始める。曲にも自分自身にも、すべてに対して自信がないんだ。 最初の2セットはまだ調子が出ない。そして最後の2〜3セットで、ようやく調子が上がってくるん だ。」 ------------------------------------------------------------------------------------------ 「レコーデイングの秘けつは、仮に【2分45秒】の曲を演る場合、まずその曲にのめり込み、自分を 投影し感情を込め、そして終わる。それでいいんだ。」 ------------------------------------------------------------------------------------------ ウェス・モンゴメリのタバコを持つ写真が多くみられる。 皮肉にも、最も評判の悪いジャケットが《A Day in the Life》で、タバコの吸い殻が入った灰皿の見 栄えのしないクローズアップ写真によるものである。 この写真は、少なくとも現代的な目を通して見ると、運命論的な自己破壊を思わせるものであり、ビ ートルズのタイトル曲の陰気で実存主義的な歪みと調和していると言えよう。 (訳注: イギリスBBC放送はこの歌詞の中に麻薬使用を連想させる部分があるという事でしばらく放 送禁止にした経緯があった。) 「言えることは、フィリップ・モリスはうれしくなかっただろうということだね。」と、テイラーは 言う。 このジャケットは、メッセージとしては全く情緒に欠けていた。 タイトルの印象によく似合っていた。 それは『寝タバコ禁止』とか『気持ちがブルーなときにブルーズを聴いても変わらない』でもよかっ たのだ。 男がタバコの火をもみ消している というありきたりな映画の一場面から《A Day in the Life》のジ ャケットはヒントを得た。言うまでもなく、健康上の問題とはまったく関係ない。 私は単に、偉大なピート・ターナーの写真だと思っただけだ。特別なことは何も考えていなかった。 ピート・ターナーは興味ありそうなものなら何でも撮っていたので、我々は時折彼の作品集を眺めて いた。そんなふうにしてこれらの写真を選んだんだ。 ------------------------------------------------------------------------------------------ モンゴメリ最後のアルバム《Road Song》はセベスキーの編曲によるもので、 ポップ色が強いアルバムであった。 〈Yesterday〉〈Greensleeves〉〈Fly Me to the Moon〉および〈Scarboro- ugh Fair〉は、甘いながらも本格的なバージョンである。
------------------------------------------------------------------------------------------ 「その最後のアルバムのジャケットもピート・ターナーの美しい写真で----道に沿って続く白いフェ ンスは広角22ミリのレンズで撮られたものだ。」とテイラーが言う。 「それがウェスの《Road Song》に使われる結果となったが----もちろん、誰もそのよう(遺作)に使 われるとは予想しなかった。それは、ちょっと皮肉だった。」 ------------------------------------------------------------------------------------------ 《Road Song》が最後のヒットとなったが、そのことを大いに喜ぶほどウェスは長生きしなかった。 1968年6月15日、彼は心臓発作で西44番街の自宅で死去した。 彼は妻シリーンの腕の中で生涯を終えた。 (彼女の名を付けたバラッドが《Road Song》に収録されている。) ------------------------------------------------------------------------------------------ 2400人もの群衆がインディアナポリスにある清教徒バプティスト教会の追悼式に参加した。 その中にキャノン・ボール・アダレイとモンゴメリ・ファミリが参列していた。 彼の子供たち----娘のシャーリン・グレイソン、シャロン、サンドラ、フランセス、トニィ、息子の ジョン・リトル・ジュニアとロバート----そしてセレーンは姉妹にあたるレナと一緒だった。 生涯仲の良い兄弟で音楽仲間だったバディとモンクは、棺のかつぎ手を勤めた。 ------------------------------------------------------------------------------------------ モンゴメリの遺体はニュー・クラウン墓地に運ばれた: この墓地内の【モンゴメリ・ロード】と書かれた標識に沿って並ぶ墓石の中に彼の墓石がある。 暖かく赤味がかった色合いで、彼の生涯のトレードマークとも言えるギブソンL5ギターの絵を彫っ た墓石は、なかでも一段と際立っている。 インディアナポリス・スター(訳注: 地元新聞)は葬儀に関する記事をレポートし、多くの友人たちの コメントを載せている。 ウェスのことを、『まじめでよく働く正直者として、またパフォーマとしても自分の偉業に奢ること のない、いい奴だった。』と伝えられている。 ....JT________と最後に名前らしき2文字あるが《ブリティ・ブルー/M-47030》のライナー・ノーツが J・テイラーですが、同一人物なのか?